調査票
武蔵野台地東縁で上野台地と紹介されている箇所にある西ヶ原貝塚を調査した。
同時に、付近にある中里貝塚との関連を調査考察した。

武蔵野台地東縁崖線であり、上野台地の峡ハケについて
アイヌ語で川下を意味するpankeを語源とするハケについての記述が「東京市荒川区編;荒川区史、昭和11年出版」の210頁にある。
因みに、荒川区に峡田小学校が多くある。
峡田は、峡田氏の名称を意味する事もあるが、多くの田がハケの水を多く利用していた事を意味していると推察できる。
昭和の時代迄はハケの水を利用した製紙工場や染め物工場も多く存在していた。

都市断層として、考察の対象とした変位地形のひとつである護国寺や茗荷谷そして講談社付近の湧水について述べておく。
第2次世界大戦の時、講談社の脇に噴出していた湧水は飲料水としても利用されていたようである。
縄文遺跡のある集落に河川以外に湧水が必要であった事は既に述べていたが、今回の調査でに於ける重要な視点である。

武蔵野台地の伏流水に起源をもつ峡ハケの存在が西ヶ原貝塚が中里貝塚と密接な関係である事を示唆している。
縄文の海退に伴い自然堤防堆積物のひとつである浜堤ひんてい堆積物は河岸段丘と異なっている。

火山噴出物に起源をもつ堆積岩類と海成岩類の混合大地の広がりは多くの人々が生活出来る場所となった。
その生活を支える清流となる水源が多く存在していた事は明確なことです。

嘗て、台地の上に居住していた時は海進に拠る水源の確保は海岸線に沿った崖線の中腹に水源があり、飲料水の確保が困難であったと推定される。
海退により、水源の確保は容易になったと推定する。

集落の増加と貝殻の増加は、衛生環境の悪化を招いたであろうと推定する。
結果、呪術的意味を併せ持っていた貝塚は単純に廃棄物の集積所となったと推定できる。

食料の豊穣という祈りという呪術的意味が失われて行く過程と考察する。
新たな祈りと儀式について、今後の考察対象にしてゆきたい。

近代における遺跡調査環境は、富国強兵の明治期と大正期そして現代に至るまで共通する事がある。
政府の都市計は利益社会関係を主軸とした乱開発により失敗して今日に至っている。
結果、遺跡調査が困難を極める結果を招来してしまった。

鉄道の敷設が及ぼした影響について
昭和初期に赤羽駅と田端駅を結ぶ複線化の工事に伴い築堤がされたとの記録がある。
王子駅付近の土地利用計画に伴う地盤の改変についても、今後の考察対象としたい。



武蔵国地方

隅田川流域
石神井川
滝野川



東京都

豊島区
北区


0123


調査日
2018年12月





都市部観察地
付近の施設名
JR上中里駅
住所

郵便番号

電話番号

GPS
35°44′47.4″N
139°44′44.4″E


写真




















渡線橋




瀧野川女子中学校
瀧野川女子高等学校














北区の掲示板
平塚神社とある


GPS
35°44′40.4″N
139°45′11.0″E








中里貝塚
























JR尾久駅長
JR尾久車両センター長




斜めに水路がある










水路跡




マンホール




GPS
35°44′41.1″N
139°45′15.5″E

















学校法人上中里学園
上中里幼稚園








中里貝塚史跡広場


彼方の寒気



植生










資料


調査票


地方

流域





都道府県



0000


調査日




周辺の医療機関
付近の施設

住所

郵便番号

電話番号

GPS


写真





都市部観察地
付近の施設名

住所

郵便番号

電話番号

GPS


写真


植生




表層観察地
付近の施設

住所

郵便番号

電話番号

GPS


写真


植生





表層観察地
付近の施設

水路

住所

郵便番号

電話番号

GPS


写真


植生





河岸の状況
付近の施設

水路

住所

郵便番号

電話番号

GPS


写真


植生




杜または林そして森の植相

付近の施設

住所

郵便番号

電話番号

GPS


写真


植生





醤油業
醤油の製造は良質の水と深い繋がりがある。
変位地形を求めて訪ねる事にした。


施設名

住所

郵便番号

電話番号